平成19211日: シルバーシテイー武蔵境を訪問してお会いした時のものです。この時は「お酒は毎晩飲んでおられますか?」との問いに「毎晩なんてもんじゃないですよ、毎日昼間(シルマ)っから飲んでますよ!」といって泡盛を準備されようとしたので慌ててお止めしたことを覚えています。

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1)平成22年(2010)6月記: 小張一峰先生を偲ぶ

平成22年6月、岩永正明記す

小張先生との出会いは私の人生の宝であり、活力の源でありました

平成20720日(日曜日)三鷹中央病院の救急外来で写した写真です。(714日のお誕生日が過ぎて間もなく)、94歳のお祝いを述べるつもりでお訪ねしたところ、体調を崩されて、三鷹中央病院の救急外来へ行かれているということでした。直ぐに病院まで行ってみますと、丁度診察が終わったところでお会いすることが出来ました、シルバーシテイー武蔵境までご一緒しましたが、お疲れの様子であり、そのままお休みになるといわれましたので、そこでお別れしました。これが小張先生にお会いした最後の日です。

小張一峰先生を偲ぶ

小張先生とお会いしてから45年、私が受けた薫陶・恩恵の数々は語り尽くせるものではありませんが、娑婆世界の小張先生を偲びつつ45年間を振り返ってみます。

 昭和41年、長崎大学医学部を卒業した私がインターン生活を送っていたある日のこと、医局の先輩が、都立駒込病院から熱帯医学研究所へ教授として来られたとても素晴らしい先生が居られるので会いに行こうと誘われて小張先生をお訪ねしたのです。私にとってその面会は感激的なものであり、この出会いが私を思いもかけない方向へ走らせることになりました。
 その時、小張先生は熱帯医学研究所の新設臨床部門へ着任されたばかりで、まだ居室も無く、図書室の倉庫に机を置いて仕事をしておられました。そこで小張先生にお会いした時の第一印象はかなり強烈なものであり、先生の迫力と優しさに圧倒されました。当時の私にとって教授というものは、地震、雷、火事、オヤジといった類の印象でありましたが、小張先生はその表現と全く異なる雰囲気を持っておられました。

「君は将来何を目指しているのですか?」という問いに、私は呼吸器疾患特に気管支喘息を専門にしたいという自分の夢を語りました。そのあと私が「小張先生は何を専門としておられるのですか?」、という形どおりの質問をしました。そこで小張先生が赤痢・疫痢・コレラなどの話を始められたのです。赤痢・コレラ・腸チフスなどについては、当時すでに殆ど忘れ去られた疾患であり、私にとっては興味の対象外でありました。しかし小張先生のお話を聞いていると、これがまた何と興味深い、しかも新鮮な感じのする話であったのです。面会時間は短かったのですが、お話の内容は深く、疾患の根元は感染症にありと思わせられるほどに引き込まれてしまいました。帰りぎわ、既に私は或る決心をしていました、インターンが終ったらこの先生のところへ大学院生として入学しようと。          

 熱研における大学院の4年間、小張先生は我々に本当に楽しく有意義な日々を過させてくれました。2ヵ月間くらい過ぎたある日、小張先生が「君はインターンの時小児科をやっておらんのかねー、感染症は子供に多いからねー」と言われました。そうかインターンの時小児科もまわっておけばよかったかなと思っていると翌日「国立大村病院の田崎先生に頼んでおいたから、そこへ行ってすこし小児科の勉強をして来なさい」とまさに思ったらすぐやるという先生でした。それから4ヵ月間小児科の研修ということになりました。小児科の研修が済むと今度は実験コレラ症感染モデルの作成と感染腸組織の光顕、電顕的観察に没頭させられましたが、その間に抗生剤の体内動態や抗菌力についてもその方法論とテクニックを身につけるよう命ぜられました。それは続いて予定されていた研究テーマ「コレラにおける抗生剤療法の検討」に対する前準備でもあったのです。大学院2年目の1968年7月から翌年1月の半年間、私はマニラの国立サンラザロ病院へ連れて行かれそこで「コレラにおける抗生剤療法の検討」と題する研究をさせてもらいました。始めの一ヵ月間は小張先生直々に手とり足とりでコレラ患者の診かた、外国人である医師、看護婦、患者家族との接し方などを指導してくれました。したがって事はスムーズに運び、その後の5ヵ月間は私一人でも出来るようレールを敷いてから小張先生は帰国されました。後で考えてみても不思議なことは、次々とかつぎこまれてくる頻死のコレラ患者に対して、フィリピンの医師免許を持たない私が、一時間に2〜3リットルという大量の点滴を行い、抗生剤をワンショットで静注し、その後毎時間採血、採便をするというようなことを何の不安、抵抗もなく出来たことであります。これも小張先生がサンラザロ病院長のドクター・ウイランコや後の厚生大臣ドクター・アズーリンなどと親しかったので、その希望を伝えておいてくださったからだということを、私はずっと後になってから知りました。 当時は日本でも赤痢の発生頻度がわりあいに高く、患者をみる機会がしばしばありました。小張先生の臨床部門は診療科をもっていなかったので、医学部内科筬島教授の御好意で市立長崎病院の伝染病棟に席を借りておりました。赤痢、腸チフス、そして夏の日本脳炎が主たるものでした。ここでも小張先生は手取り足取り直接に我々を指導してくださいました。特に印象に残ったことは小張式直腸診察台による直腸鏡検査、およぴ腸チフス患者の診かたでありました。

 大学院も3年目になりますと学位論文のことが気になります。その頃実験コレラ症のモデルがいくつか知られておりましたが、マウスにおける感染モデルは小張教室で完成させたものであります。マウスにおけるコレラ症は生後10日以前のマウスに限って発症し死亡しますが、生後20日を過ぎると全く発症しなくなります。生後10日から20日の間にマウスの腸がどのような変化を起しているのか、その変化をコレラに対する抵抗性と関連させて検討する、学位論文のテーマをいただきました。小張教室の大学院生は中富先生(現、熱研同門会長)と私の二人であり、この二人が最初でありまた最後の院生でありました。 

 私達の学位審査が済むとすぐ、小張先生は大学を辞めてWHOに就任されましたが、熱研に在職中の5年間、小張先生は片峰大助先生と共に熱研の顔であり、熱研を熱研らしく発展させる基盤を作り上げた大功労者であるといえます。

小張教室を出てから私は内科学教室へ戻り、大学病院や一般病院で仕事を続けましたが、昭和50年から52年の約3年間は関連病院である静岡県の浜松医療センターで呼吸器科を受け持っておりました。私が浜松へ着任してまもなく小張先生は4年間余りのWHO生活を終えて帰国され、千葉の自宅に居られました。訪れてみますと、「無職なので週2回位近くの診療所でアルバイトをして食いつないでいるんだよ」といわれ、私はびっくりしたのですが、そこに小張先生を訪ねてくる人々を見て更に感じさせられたことは=小張先生という人は無職であっても大学教授であっても、病院の院長であってもその地位に関係なく、人々の小張先生に接する態度が全く同じである=ということでありました。多くの人々から慕われるようにもてはやされていた人がその地位を失ったとたんに誰も寄り付かなくなり、皆そっぽを向くということは決して稀では無く、むしろそれが世の中の大半であります。私は良いボスを選んだものだ、「ボスを選ぶのも能力のうち」、という誇らしげな気分になり、「俺は小張先生の一番弟子である」と口に出すようになりました。

丁度その頃私の居た浜松医療センターは院長の任期満了により次期院長の選考が行なわれておりました。当時浜松医療センターは優れたオープンシステムの病院で、全国から見学にくる程立派なものでした。また新設された浜松医科大学の臨床実習を受けもつことにもなっていました。この病院には多くの大学が医師を派遣しており、また浜松市当局および市の医師会との関連も重要かつ複雑であり、病院の運営は大変難しいとされていました。従って院長の適任者がなかなかみつかりませんでした。各大学がその勢力拡大のため院長を派遣するといってきます。そうこうしているうちにどういう手順を経たのか突如として新院長が小張先生に決ったのであります。私のボスは再び小張先生になったのです。浜松医療センターは私がそれまでに経験した多くの病院のなかで最も理想に近い状態で診療が出来た病院でありました。更に小張先生の行動力・人徳・人脈などにより病院は益々発展してゆきました。しかし病院内では医局、組合等の各セクター、外では各大学、市議会、医師会等それぞれの立場における主義主張があり、これが常に大きな問題でありました。私は院長との師弟関係を悪い意味にとられることを恐れてか、思慮不足のためにしばしば反院長的な態度をとって小張先生を悩ませたようでありました。後になって考えると私のとった態度は軽率であり悔やまれます。従ってこれ以後は常に小張先生の言うこと即ち真実即ち正義であるという立場をとってきました。

 私の浜松生活も二年を過ぎたころ、長崎からは人事交代の話が出始めました。その時小張先生は私に「長崎へ戻るなら少し基礎研究をやってみてはどうか」と言われました。基礎研究には私も少々色気をもっていましたし、また浜松医療センターにおける診療生活が余りにも充実していたので、急に長崎へ戻っても診療生活には楽しみが少ないと考えていました。私が態度をあいまいにしている時、小張先生は既に内科教室の原教授、熱研細菌教室の内藤教授と話をつけておられたのです。そんなわけで私は「一応5年間の予定で何か仕事を残して、臨床へ戻ります。」といって昭和53年から長崎大学熱帯医学研究所病原細菌学教室で仕事を始めました。

 私が熱研へ移ってしばらくすると、また思いがけないことがおこりました。小張先生が琉球大学の新設医学部へ附属病院長兼第一内科教授として赴任されるというのであります。先生は御年既に64才でありましたが、心身ともに健やかで十年は若くみられておりましたので私も先生の御活躍を期待しておりました。ところがしばらくすると小張先生が長崎に来られて「岩永君、どうかね琉球大学で細菌学をやってみては…」と突然言われたのです。私は「いやいや私はしばらくして臨床へ戻りますし…」と言いましたところ先生は「うん、そうだね君は臨床が好きだからねー」話はこれで終わりました。また数ヵ月してお目にかかった時、先生は私にぶ厚い用紙の束を渡されて「これ、一応見ておいて下さい」と・・・履歴書の様式でした。その時もそれで終りでした。またしばらくして今度は電話でした。「君、あの書類はどうした?」確かに捨てた覚えはない、どこかにあるはずだ。「ハイまだあると思いますが」…「なに、まだ書いてないのかね」…「いえー、でも、あのー私は来月から一年間海外出張に出かけますし…帰ってきたらまもなく臨床へ…」。先生は「いや、着任はまだ2〜3年後だからゆっくり勉強して来なさい、そして履歴書と業績目録は出発前に書いておきなさい!」 このような経過で私は遂に臨床へ戻ることを断念し、内科の原教授にお伺いを立てたところ、既に原教授も小張先生と話をされておりました。

 昭和58年(19834月、私は琉球大学医学部へ着任し、またもや小張先生のもとで働くことになりました。新設の琉球大学医学部では苦労もありましたが、小張先生はじめ長崎大学第2内科の原教授、長崎の先輩である正先生(琉大第1外科教授)の他にも阪大微研の三輪谷教授などの絶大なる支援を受け、教室も順風満帆のスタートを切ることができました。小張先生は昭和61年(19873月(御齢72才)、第一回の卆業生を送ると同時に退官されましたが、其の時までに「琉球大学医学部付属熱帯環境医学センター」の設置や南に開かれた国際性豊かな医学部としての下準備を完成させていかれたのです。しかしその後の琉大医学部が全く別の道を歩んで不調を続けることになったのは実に残念でなりません。

小張先生のご退職後も私はいろいろな面で頼らせていただきました。学生に対する特別講義、細菌学教室への研究費誘導、などは90歳近くになられるまで続けてくださいました。また私の孤軍奮闘中、「倫理の一線」を守るわが身にエールを送ってくださるなど、私が大学を定年退職するまで気を配ってくださいました。

我が恩師「小張一峰先生」、永久に栄えあれと日々祈念しています。

 

 思えば人生の喜びと悲しみは、極まる所「出会いと別れ」であります。「出会い」とは尊敬・信頼・愛情の獲得、「別れ」とはその尊敬・信頼・愛情が断ち切られることなのです。単なる物理的な別れである「死に別れ」というものは、尊敬・信頼・愛情を断ち切るものではありません。死別の悲しみは凡人の一時的な感情であり、間もなく消え失せます。「出会い」によって得た尊敬・信頼・愛情は永遠に続きます。

「死別」は悲しみの「別れ」ではありません。

 無限の過去から無限の未来へ続く時間と、その間に瞬間的に存在し、一瞬の間に過ぎ去る人生。無限大と無限小の宇宙空間の中に瞬間的に存在する一塊のわが身。無限の中で人生の50年とか100年はほんの一瞬に過ぎません。宇宙法界では「無限か有限か」だけが違いであって、20年でも50年でも100年でも只の一瞬であり全く同じものなのです。その一瞬の中で、この素晴らしい「出会い、小張先生との出会い」に遭遇することが出来たことは、なんと幸せなことでしょう。物理的な人生は一瞬ですが出会いの幸せは永遠不滅です。

 我が恩師「小張一峰先生」は平成2254日ご永眠に入られました(享年95歳)が、私と小張先生との間に在る「尊敬・信頼・愛情」は今も全く変わることなく存在し続けており、将来にも永遠に存在し続けるので、小張先生のご永眠は決して「お別れ」ではありません。小張先生は常に私の幸せを祈っていてくださいました、私もまた常に小張先生の平穏を祈ってきました、この祈りは現在も同じでまた未来に渡って同じです。

小張先生は優しくもあり恐くもあり、気高くもあり泥臭くもある、また学者でもあり遊び人でもあるといったようにいろいろな面をお持ちでありますから、短いお付き合いの人が先生のお人柄を語ると、いろいろな評論が聞かれます。正に「群盲象を撫でる」の諺通りどれが本当の小張先生なのか分からなくなります。私は長いお付き合いのもとで目を開いて巨大な象の全体を見たつもりです。 一言で表現すれば、「先生は地位が高い時も無職のときも、人々が同じ頻度で、同じように尊敬しながら気楽な態度で接してくる」 そういったお人柄であります。