虚空庵での佛教講座

虚空庵解説から2年目を迎え、人々の出入りも増えてきたので、ご近所の人たちと「法華経」の勉強会を始めました。
ほぼ月一回で11回で、いったん終了しました。11回の配布資料をここに載せていましたが、振り返ってみるとやはり
難しすぎた感じがします。そこで今回は、その配布資料は削除して、本当に分かりやすい「日常の言葉」を念頭に置いた
「法華経28章の要約的物語」ともいう小冊子を作り、5月に出版しました。

下の写真は冊子の外観です。



令和2年5月に、この小冊子が出来上がってみるとやはり誤字脱字転換ミス、さらには分かりにくい解説などいろいろな不備が見つかり、
読者の皆さんからもご指摘をいただきました。 そこで今回法 華 経 物 語(改訂版) を作成して令和3年5月に出版しました。
以下に「法華経物語(改訂版)」の原稿を添付します。)


 法 華 経 物 語(改訂版)

 目次                          1 

  一、はじめに                     2

  二、法華経を学ぶ                   4

  三、人生の目的                    61                 

    四、用語解説                               63

   五、あとがき                     71 

                     

一、はじめに

 本書は、「今まで殆ど仏教に関心を持たなかった人達」に、仏様の教えを少しでも分かってもらいたい、という思いで作成したものです。

 お盆・お彼岸・お葬式・などの法事でお坊さんがムニャムニャとお経を唱えますが、何を言っているのか意味が分からず、早く終わらないかなーと思いながらお経の声だけを聞き流してしまうのは何とももったいないことです。

 お経とは、永遠の仏であるお釈迦様が、人々を、あらゆる悩み・苦しみから救うために、この世に現れて説かれた「お釈迦様のお言葉」です。お経には「人生とは何か」が明らかにされ、また貴重な人生の目的がハッキリと示されています。老・病・死を含めて人の悩み苦しみを終わらせて「永遠至福の境涯である仏の位」に到る道が説かれているのです。永遠・無限を根本とする仏の世界と有限を基本とする人間世界を比べると、その違いは、大小・長短・軽重などの差ではなく、次元の異なる絶対的な違いですから、人間の知恵(科学)で仏の智慧(仏法)を理解することは不可能です。そのためお釈迦様はいろいろな方便(手段)を用いて、人々が少しずつ理解できるように順序正しく教えを説かれてきたのです。数多く説かれた教えの中で最後に説かれた妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)=法華経(ほけきょう)において、人々が「永遠至福の境涯」である仏に成る唯一の道(一乗の)を説かれました。この小書では仏教の真髄である法華経に見られるお釈迦様のお言葉を中心にして話を進めています。法華経は二十八章のうち、万有の真相(時間・空間=大宇宙・心・魂など万物、森羅万象の真の姿)を説かれた第二章、無始無終永遠不滅の仏であるお釈迦様の実態を説かれた第十六章、は特に重要な教えであると言われています。私はさらに、「この世の実態、及びお釈迦様が「万有の主であり、全ての人の親であり、人々を悩み苦しみから救う唯一の存在(救い主)である」ことが説かれた第三章、また、人々が成仏に至る最短距離とも言える「一念信解・初随喜」について説かれている第十七章に注目していますので、この四つの章は特に気合を入れて読んでみてください。

二、法華経(ほけきょう)を学ぶ

 お釈迦様は霊鷲山(りょうじゅせん)で瞑想(めいそう)の座に居られました。瞑想に入られる前に説かれた法話の中で「私がを説き始めてから四十年余り、まだ真実を説いていないので人々は成仏(じょうぶつ)への道を得るに至っていない」と説かれたので、会座の人々はお釈迦様がこれから真実を説いてくださるであろう、という思いを持ちながらお釈迦様が瞑想の座からお立ちになる時を静かに待っていました。法華経は二十八章から構成されていますが、何が説かれているか、第一章から順番に観ていきましょう。難しい語には傍線を付してありますので末尾の用語解説をみてください。

第一章(序品=じょほん)

 法華経の始めの章にお釈迦様のお言葉はありませんが、説法を待つ人々の様子やその場の情景が事細かに記録されており、その記述を要約すると次のようになります。

 会座の人々はお釈迦様が瞑想の座からお出ましになるのを静かに待っていました。その時、瞑想の座にあるお釈迦様の眉間(みけん)から一筋の光が発せられ、東方宇宙の彼方を照らすと、人々はそこに一万八千の世界を見ることが出来ました。それぞれの世界の様子はみな、この娑婆世界で営まれている姿と同じようなものでした。人間の知恵(科学)では全く理解できない宇宙の彼方に人々が住む一万八千の世界を見せられて、皆ビックリ仰天しましたが、お釈迦様はまだ瞑想の座におられたので、なぜこのような不思議な現象が見えたのかお聞きすることはできません。会座の人々の中に居た文殊菩薩(もんじゅぼさつ)は自分の過去を見渡すことのできる超能力を持っていると言われていました。そこで、弥勒菩薩(みろくぼさつ)が人々を代表して文殊菩薩に尋ねます。お釈迦様が、宇宙のかなたに散在する世界を我々に示すというこの不思議な現象をどのように考えたらよいのでしょうか、と。文殊菩薩の答えを要約すると次のようになります。「自分は遠い過去の世において、仏がこのような現象を人々に示されたことがあったのを記憶している。その仏は不思議な現象を示された後に、自分達には想像もできなかった偉大な法を説かれた。ですから今この現象を見ると、お釈迦様が今から想像も出来ない偉大な法を説かれる前兆ではないでしょうか」というものでした

 菩薩(ぼさつ)とは、「真の悟りである成仏を求めて修行し、常に他人のことを思いやり、皆ともに成仏するよう導く努力を怠らない人」のことです(用語解説)。

第二章(方便品=ほうべんぽん)

 ここからお釈迦様の説法が始まります。最初に極めて重要な真理が述べられていますので第二章は特に気合を入れて読んでください。

 瞑想の座から静かにお立ちなったお釈迦様は、一番弟子の舎利弗(しゃりほつ)にお告げになりました。舎利弗よ、仏の智慧(仏法)は無限に深く、人々に理解できるものではない。非常に賢く優れた修行者(声聞=しょうもん、縁覚=えんがく、など)でも理解することは出来ない。何故なら、仏の世界は無限で永遠不滅だが人間は限りある存在であるからその違いが分からないのだ。諸法の実相は仏だけが全てを体得し、知り尽くしている、と説かれています。

 諸法の実相とは【地球上・大宇宙に存在するあらゆる物・過去と未来の限りない時間・生命、全ての人の心・気持ち・思い、魂、など森羅万象あらゆる物事現象の真の姿】であり、「万有の真相」と言ってもよいでしょう(末尾の用語解説参照)。

 続いてお釈迦様は、どんなに賢い者が何人集まって考えても理解できないが、「仏の言葉を信じることによって仏の智慧に入ることが出来る」と説かれています。「仏の智慧に入る」とは万有の真相(諸法の実相)を知り尽くすことが出来る、ということでそれは即ち仏に成る=成仏すると言うことです。更にお釈迦様は次のように述べておられます。

 仏が世に現れるのは、人々に仏の知見を示して悟らせ、人々を成仏させるという大事な目的があってのことである。成仏へ導くのは「一乗の法」だけである。「一乗の法」とは成仏に至る唯一の乗り物となる教えであり、それは信ずる力の強い菩薩に対して説く教えである。菩薩が仏の言葉を信ずることによって成仏できるのだ。人々が心に念じるもの、種々な修行の道、諸々の欲求と性質、前世から背負ってきた善悪の行為など、仏はこれらを悉く(ことごとく)知り抜いており、方便(いろいろな手段)を用いて人々に仏の智慧を得させるのだが、未だその道を説いたことはない。何故なら、説くべき時期が来ていなかったからである。今が正しくその時である、まさに今、大乗の教え(多くの人々を乗せて仏の悟りに到達させる大きな乗り物である一乗の法)を説く。諸法の実相は舎利弗のような賢者でも知ることはできず、唯、仏の言葉を信ずる力のある菩薩が成仏への道を開くことができる。人が仏を信じれば、仏は彼を欺くことは無い。

 以上、第二章を極端に圧縮してみましたが、更に要点を絞ると次のようになります。

第一に、仏の世界は永遠であり、人間の知恵(科学)で仏の智慧を理解することは出来ない。小乗の悟り(人欲を断ち人里離れた静かな所で人生を考え、人は死して土に還るもので恐れも悩みも無いという自己満足の状態)を得た者でも仏の智慧に入ることは出来ず成仏できない。第二に、思慮分別によって仏の智慧を理解できずとも、仏の悟りを求め、慈悲の心で利他の行いをする者(菩薩)が成仏に至る唯一の道、法華経に説かれた仏の言葉、を信ずることによって成仏する(永遠至福の境涯を得る)ことが出来る。

第三に、仏は人々を成仏させるという大事な目的をもって世に現れる。

第三章(比喩品=ひゆほん)

 万有の真相について、また仏(お釈迦様)がこの世にあらわれた理由などの教えを受けた一番弟子の舎利弗(しゃりほつ)は、未だ嘗て経験したことの無い不思議な心の動きを感じ、その悦びを告白するところから第三章が始まります。

 舎利弗は「あまりにも大きな喜びに、夢ではないかと疑い、まさか悪魔がお釈迦様の形になって自分を騙しているのか、とさえ疑ってみたが、やはりこれは現実でした」と語った後、自分が以前バラモン教の師であった時のことから今日までのことを反省し、その内容を詳しく告白しています。

 舎利弗の告白をお聞きになったお釈迦様は「過去の世における舎利弗の行為」について語り、今こそ真実を説く時が来たのだと、大乗の教え(法華経)を説き続けます。その中でお釈迦様は「舎利弗は既に大乗の教えを信じ、来世では間違いなく成仏して世に現れ華光如来(けこうにょらい、如来とは仏と同じ意味)という称号の仏として人々を導くであろう」と、舎利弗が必ず成仏するというお墨付き(授記)を与えられました。

 舎利弗が成仏のお墨付きを得たことに対して、会座の人々が喜びを次のように告白します。「大いなる智慧をもつ舎利弗は今、世尊(せそん=お釈迦様)から来世に必ず成仏するという確約を受けました。私達も必ず仏になれるように、また他の人々も共に成仏出来るように、私達が持っている全ての功徳(くどく=未来に良い結果をもたらす善行)を悉く(ことごとく)仏道に差し向けます」と。

 ここで舎利弗は、お釈迦様に次のようなお願いをしました。「私は今、世尊の教えを

拝聴して何の疑いもありませんが、人々の中には、まだ疑念を抱いている者も居ます。その者達のためにどうかその疑いを解いてくださいませ」と。この願いに応じてお釈迦様は人々に理解させるため、「この世は火に囲まれた家のようなものである」という三界火宅の喩え話をされました。火に囲まれているとも知らず、火が近付いていると告げてもまだ火は子供達の目にとまっていないため、家の中で遊び戯れる子供たちを救おうとして、父親は子供たちが望んでいた玩具を使って屋外に導きだすというたとえ話です。その他にも多くの教えを説かれていますが、第三章におけるお釈迦様の説法をまとめると要点は次の四つになると思います。

①この世は火に囲まれた家のようなものだから早く脱出して安らかな所に移りなさい。

②お釈迦様は宇宙三界万有の主であり、全ての人の親であり、唯一の救主である。

③この教えを理解出来なければ信ずることで誰でも仏に成ることが出来る。

④この教えを謗る(そしる)ことは自分の仏性を断つことであり地獄への道となる。

 仏性(ぶっしょう)とは誰もが持つ「仏になる性質=仏種」のことです。

 ②の経文は、漢訳「今此三界 皆是我有 其中衆生 悉是吾子 而今此処 多少患難 唯我一人 能為救護」、和訳「今この三界は皆これ我が有なり、その中の衆生は悉くこれ我が子なり、而も今この所は諸々の患難多し、唯我一人のみ能く救護をなす」となっていますが、これではまだ分かりにくいので、これを日常の言葉で次のよう表現すると意味はそのままで、ずいぶん分かりやすくなると思います。

 限りなき過去も未来も大宇宙(おおぞら)も、天地万物あらゆるものは、全て仏の内にあり。世の人々は悉く、皆、み仏の御子なるぞ。人々は、老い患いて死を向かえ、悩み苦しみ悶えるも、その苦しみを救うのは、ただ釈迦牟尼仏(お釈迦様)のみである。

第四章(信解品=しんげほん)

 お釈迦様の説法に感激した迦葉(かしょう)ら四人の声聞(しょうもん)達が「無上の宝を求めずして得たり」と喜びを表します。更に自分達の目の前で舎利弗が確実に成仏するというお墨付きを得たことに歓喜して、自分達の心の内を告白します。声聞とは、自分一人が煩悩を取り除いた悟りの境地を求める修行者のこと(用語解説)。告白の内容は、「長者窮児の喩話」によって説明されていますが、それはお釈迦様が人々に対して忍耐強く少しずつ仏の道を理解させようと努力してこられたことを今になって知ったので、長年にわたるお釈迦様と自分達の関係をたとえ話で述べたものです。その喩話は次のような概要です。

 幼くして家を離れ、長者である父を知らぬまま心を閉ざし乞食生活をしていた子が、ある時偶然父の長者に出会ったが、子は父を知らず、父と告げても信ぜず唯恐れるばかりで逃げ出していまいました。そこで長者は、貧しい身なりを装った使者を介して、その子を屋敷の汚物清掃人として雇いあげます。長者である父もまた汚物清掃人の身なりをして子に近づき、長い年月をかけて少しずつ話を進め、時が至って真実を告げ、全財産を子に譲った、という内容の話です。お釈迦様を長者に譬え(たとえ)、自分たちを「父を知らぬ窮児」に喩えています。・・さらに声聞達の告白は続きます。・・お釈迦様は私達の心が小乗の悟りを願っていることをご存知であり、私達に合わせて種々な教えをお説きになられた。(困窮児が長者を自分の父であると知らなかったように)私達は仏の子であることを知らなかったのです。私達は真に仏の子でありながら、ただ自己の悟りを第一とする小乗の悟りのみを願っていました。もし我らにも、他の人々の救済を願う心があったなら、お釈迦様は直ちに菩薩(ぼさつ)のための大乗の教えを説かれたでしょう。私達は今まさに「お釈迦様の全財産(大乗の教え)を受け継ごうとしていること」を知りました。このような声聞達の告白でこの章は終わります。

第五章(薬草喩品=やくそうゆほん)

 長者窮児の喩えによる声聞達の告白を聞かれて、お釈迦様は、「まさにその通りである」と声聞(しょうもん)達をお褒めになりました。経文の最初は次のようは書き出しです。

 その時にお釈迦様は、迦葉(かしょう)及び、諸々の大弟子にお告げになった。

まさにその通りである、迦葉よ、仏の真実の功徳をよく説いた。誠に汝の言う通りだ。仏には計り知れない多くの功徳があるので、汝らが際限なく説いたとしても、説き尽くす事は出来ない。迦葉よ、よく知っておきなさい仏は諸法(天地万物・森羅万象)の王であり、その教えは人々を仏の智慧に導く。仏は、この世に存在する一切のものが最後に行き着く所を観知し、人々の心の奥底の働きまで知り尽くしている。森羅万象あらゆるものを究極まで知り尽くしており、人々にその智慧を示す。

 続いてお釈迦様は次のように述べておられます。

 大雲が大地に等しく雨を降らせても、草木はそれぞれの性質によって大きく育つもの、小さく育つもの、大きな葉をつけるもの、小さな葉をつけるもの、花を咲かせ、実を結ぶもの、など育ち方はいろいろである。このように仏が平等に法を説いてもそれを聞く人々の性質や能力によって理解するところが異なる。仏はこのような人々の性質を知り、その能力に応じていろいろな方便を用いて教えを説き、皆を歓喜させ、快い善利(ご利益)を得させる。

未だ悟りの境地(彼岸)に渡っていない者を悟りの境地(彼岸)へ渡らせ、
未だ執着から離れていない者を、執着から解放し、
未だ安心していない者を安心させ、
未だ涅槃(ねはん=不滅至福の境涯)を得ていない者には、涅槃を得させる。

仏は常にこのような誓願を持っているのだ。

 そして最後に声聞達に向けた次のようなお言葉でこの章は終わります。

 今汝らのために真実を説く、自分の悟りだけを求める声聞小乗の修行者)は、成仏に至ることはできない。汝らの修行すべきことは菩薩の道(大乗=仏道に専心し、慈悲を行じ、後戻りせず、人々を悟りの境地へ導くような修行)である。徐々に菩薩の修行を積み、悉く皆、成仏しなければいけない。

第六章(授記品=じゅきほん)

 第四章で長者窮児の喩えにより心の内を告白した四人の声聞が成仏のお墨付きを受ける場面が記されています。

 お釈迦様は先ず、迦葉(かしょう)の徳を讃たえ、将来必ず仏に成るというお墨付きを与えます。そこで三人の声聞、須菩提(しゅぼだい)・迦旃延(かせんねん)・目腱連(もっけんれん)、は歓喜に身を震わせてお釈迦様を拝み、どうか我らにも成仏のお墨付きを与え給えと、お願いしました。お釈迦様は、須菩提、迦旃延、目腱連と続いて成仏のお墨付きを与えますが、「汝らの成仏を保証する」といった単純なお言葉ではなく、彼らが成仏に値する理由・過去の行いや成仏する時の様子などを詳しく説明されています。

第七章(化城喩品=けじょうゆほん)

 この章は少し趣(おもむき)の変わった説法になります。

 最初に、遠い昔(千万憶年を繰り返し千万憶倍したよりもさらに遠い昔)、十六人の子供を持つ国王が出家して仏門に入り成仏して大通智勝如来(だいつうちしょうにょらい)という仏様になったというお話をされますが、その遠い昔の事でさえお釈迦様にとってはまさに今起きている事のように観えるのです。経文には「我、仏の知見故に、彼の久遠を観ること猶今日の如し」とあります。お釈迦様はその国王が成仏する経過を詳しく述べられていますが、その様子はインドでお釈迦様がシッダルタ王子として釈迦族の王家に生まれ、後に出家してこの世で成仏を人々に示された時の様子と良く似ています。

 その遠い昔に、国王が成仏して大通智勝如来となった時、十六人の王子を始め多くの人々が教えを請い願う様子、世界中の有力者たちが挙って(こぞって)大通智勝如来を最大限に供養する様子、などが事細かに述べられています。そこで、大通智勝如来は十二因縁(じゅうにいんねん)の法について話をされました。

 十二因縁の法とは、世の中の悩み苦しみの原因をたどっていくと結局は「真理に対する無知、即ち無明」が根源にあるという「原因と結果」の分析です。したがって「無明の闇」を除く光によって全ての苦悩は消滅するのです。

 次に、十六人の王子が皆出家して次第に悟りの道を深め成仏した後、宇宙十方の国土において、現在、教えを説かれていること、その十六番目の王子とは実は、今この霊鷲山(りょうじゅせん)で教えを垂れているお釈迦様の化身であり、九番目の王子は西方の極楽世界で法を説く阿弥陀如来の化身であることも述べられています。

 続いて、化城喩(けじょうゆ)の喩話(たとえばなし)があります。人々を法華経の教えに導いて成仏させるために、お釈迦様がいろいろな手段を用いて人々を導く様子を説明した喩話です。喩話の概要は次のようなものです。険しい山を越えて宝物を求める人々の集団と、道案内のリーダーが居ました。険しい山道を進むうちに皆が疲れを感じて引き返そうとしたので、リーダーは神通力を持って幻の大きな町=化城を作り、そこで皆を休ませます。町の中で人々は癒(いや)され、楽しみ満足していた時、リーダーはこの町が幻であり、ここに留まっていては宝物を得ることは出来ないと人々に告げました。そこで幻の町を消して「さー皆さん宝の山はもうすぐそこにある」と言って再び歩き出す。これを繰り返して遂に宝の山に到達させるという話です。

 これは仏さまをリーダーに譬え(たとえ)、法華経を宝の山に譬え、他の経典を幻の町(化城)に譬え、我々凡夫を「リーダーに付いて歩く人々」に譬えたお話です。

 この喩話でお釈迦様が人々に伝えたいことは、次のように要約できると思います。

 永遠至福の境涯を得たいと願う者が、欲望を断ち、人里離れて一人静かに自分の悟りを得るという小乗の教えや仮の仏を拝む権大乗の教えに出会い、それを信じることで永遠至福の境涯が得られたと思い込んでしまった。しかし思い込んだ境涯はまもなく消滅する幻の楽園であり、輪廻転生を断ち切れていない、即ち成仏ではない。それらの教えは人々を法華経に導くための方便(仮の教え)であり、仮に説かれた仏様を拝むことによって成仏することは出来ない。成仏とは、森羅万象すべてを知り尽くした仏の智慧を得て、輪廻転生を断ち切った永遠至福の境涯を得ることであり、それは法華経に説かれた大乗の教えによってのみ得られるものである。即ち、法華経以前に説かれた阿含経も大日経も阿弥陀経も般若心経も成仏に至る教えではない、と説かれているのです。

第八章(五百弟子授記品=ごひゃくでしじゅきほん)

 ここから再び弟子達に「授記」を与える場面が続きます。第六章で四人の声聞(しょうもん))が成仏のお墨付きを与えられたのを見て、お釈迦様の直弟子である富楼那(ふるな)尊者は、何とも言えない心地で物思いに耽っていました。

 その時、お釈迦様は座に居る出家者達に、「富楼那を見よ」、とお告げになりました。そして富楼那の説法が如何に優れているか、どれほど多くの人々に菩提心(ぼだいしん=真の悟りを求め、人々を救済しようという思い)を起こさせてきたか、仏以外でこれほど優れた説法をする者は他に居ない、と富楼那を褒め称えました。続いてお釈迦様は次のように話されています。人々を導くための説法では、①どの教えをどのようにして説くか迷い、②その内容を理解させるにはどうすればよいか迷い、③どのような言葉・言語を使えばよいのか迷い、④どのようにすれば人々が喜んで話を聞くかで迷うものだが、富楼那にはそのような迷いによる説法の妨げが無く自由自在に人々に喜びを与える説法ができる。富楼那は、前世から長い期間にわたって諸々の仏の下で優れた説法を行い、常に仏の国を清めるための仏事を行ってきた。来世でもまた仏に使え、人々を導くであろう。そして長い時を経て必ず成仏する。

 その時座に連なっていた千二百人の阿羅漢(あらかん=小乗の悟りに達した修行者)は自分達にも成仏のお墨付きを授けてくださったらどれほど嬉しいことだろうか、と思っていました。お釈迦様はこの思いを知って、摩詞迦葉(まかかしょう)にお告げになりました。この千二百人の阿羅漢に、成仏する保証を順次与え授けよう。まず私の大弟子憍陳如(きょうちんにょ)は来世に仏となって、その名を普明如来(ふみょうにょらい)という。また五百人の阿羅漢達も成仏して同じ名、普明と言う。

 授記を受けた阿羅漢達は大いに喜び、衣裏繋珠(えりけいじゅ)の喩話(たとえばなし)をもって心の内を告白します。喩話の概要は次のような物語です。

 裕福な男が友人である貧しい男と飲み明かし、二人とも酔いつぶれてしまった。目を覚ました裕福な男は友人が寝ている間に彼の服の襟に途方もなく高価な珠を縫い付けて立ち去った。貧しい男が目覚めた時、「裕福な友」が居ないので自分も立ち去り再び貧しいどん底の生活を続けた。時は流れ、二人は偶然に再会したが、裕福な男は友人が未だにどん底の生活をしているのに驚き、「お前、一体何をしているのか、お前の襟には一生楽に暮らせるだけの高価な珠が在るのに、あー哀れなことよ、早くそのを売って楽な生活をしなさい」と言った。

 この喩話では仏性(人が持つ仏に成る性質=仏種)を珠に譬えていますが、内容は、自分が仏性を持つことを知らないために、成仏に至らない小さな悟りで満足してしまうこと、これに対する警告とも言えます。成仏に至らない小さな悟りとは、「私は死んで土に還ると言う生物の道を理解して納得しているので、死ぬ時も静かな気持ちでいられると思います」、「私はすでに物欲・色欲・権力欲等々から全く断絶しているので恐れるものは何もない、死も恐れない」といった自分一人の悟りであり、単なる自己満足にすぎません。これでは輪廻転生の鎖を断ち切ることは出来ず、成仏することは出来ない、とお釈迦様は説かれているのです。人々はなぜ小さな悟りで満足してしまうのでしょうか。それは、因果応報・輪廻転生・仏の世界、人々は皆仏に成る性質「仏性」を有する、と言った「真理」に対する「無知」が原因です。「真理」に対する「無知」を無明と言い、人生の目的は無明の闇を除くことなのです。

第九章(授学無学人記品=じゅがくむがくにんきほん)

 この章でも多くの弟子達が未来世に必ず仏に成るという授記を受けます。十大弟子の一人である阿難(あなん)、同じく羅睺羅(らごら)、を始めとして授記を受けた多くの人々は皆、歓喜の言葉を述べてお釈迦様を礼拝します。

第十章(法師品=ほっしほん)

 これまでの説法は声聞(小乗の修行者)に向かって行われてきましたが、ここからの説法は菩薩(大乗の修行者)に向けられます。

 お釈迦様はまず、薬王菩薩(やくおうぼさつ)に向かって教えを説かれますが、その要点は法華経信仰による成仏であり、法華経の行者を敬うことの功徳(くどく)がいかに大きなものであるか、また法華経とその行者を謗る(そしる)ことがどれほど大きな罪であるか、ということを説かれた後、お釈迦様の滅後に法華経の教えを護るための心構えを中心に説法が行われています。

 お釈迦様のお言葉をいくつか拾ってみましょう。

 如来(にょらい=仏と同じ意味)がこの世を去った後に、ある人が法華経の一節、一句でも聞いて、瞬時でも、心底有難く思い歓喜するならば、仏はその者に授記(成仏を保証すること)を与える。また或る人が法華経を守り、仏に供養し、合掌し、恭しく敬っていたら、この人はかつて十万億の仏を供養し、諸仏の所で大願を成就(成仏)し、人々を憐れむ(あわれむ)ために、この世で人に生まれてきたのである。

 常に不善の心を懐き、仏を罵った(ののしった)なら無量の罪を得るであろう。この法華経を保ち読誦する者に対して少しでも悪言を加えたとしたら、その罪は更に大きい。

 人あって仏道を求め、合掌し、仏を讃嘆(さんだん)する、この讃嘆によって限りない功徳を得る。この教えを護持する者を歎美(たんび)すれば功徳はそれ以上である。

 もしこの法華経を聞き、悟り、心に浮かべてよく考え、修習する事ができたら、この人は必ず最上の智慧を有する仏に近づく事ができると知るべし。一切の真理を普く(あまねく)知る仏の智慧は皆この経に説かれている。この法華経の蔵は深く堅固で奥深く遥かであるから、人はよく至ることはできないが、今、仏は菩薩を教化しそれを成し遂げさせようとして、これを説き示しているのである。

 薬王よ、多くの人が菩薩の道を行おうとしても、この法華経を見る、聞く、唱える、書写する、供養する、などのことが出来ないならば、これらの人は未だ菩薩の道を行じてはいない。この経典を聞く事を得た者は、即ち菩薩の道を行うことができるのだ。

(法華経に触れずして菩薩の道=仏に成る道=は行じ得ないということ)

 この法華経は仏在世の現在でさえ反発敵対されることが多いので、ましてや仏滅後には反発敵対されることがさらに大きくなる、仏はその衣をもって説く人を覆うであろう。

 仏滅後に、法華経を説こうとする時は、如来の室に入り、如来の衣を着、如来の座に坐して、人々の為にこの経を説くべきである。如来の室とは、大いなる慈悲の心。如来の衣とは、柔和な忍耐の心。如来の座とは、無我の境地である。

第十一章(見寶塔品=けんほうとうほん)

 ここで法華経の講座は地上の霊鷲山(りょうじゅせん)から虚空(こくう)に移ります(虚空とは真理に融合した世界ですが、この場の人々にとっては宙に浮いた無限の花園のような感覚でしょう)。

 お釈迦様が教えを説かれていた時、目の前に巨大な宝塔が涌き出でるように現れ空中に聳える(そびえる)場面からこの章が始まります。その宝塔の大きさ美しさ素晴らしさは筆舌に尽くせないものですが、それを何とか表現しています。人々が呆気(あっけ)にとられている時、宝塔の中から、「何と素晴らしい、釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ=お釈迦様)がこの偉大な法華経を説かれるとは、何と素晴らしいことだろう。釈迦牟尼仏が説かれることは悉く真実である」という声が聞こえてきました。この声を聞いて座の人々は更に驚き、いったい何が起こったのかと不思議に思うばかりでした。そこで座の人々を代表して大楽説菩薩(だいぎょうせつぼさつ)が「この不思議な現象が何故生じたのか」そのわけをお釈迦様にお聞きします。お釈迦様は「この宝塔の中には多宝仏という仏が居られる」と言われて、多宝仏の来歴を説明されました。説明の後、お釈迦様はその謂れ(いわれ)に従って、宇宙の彼方十方の世界で教えを説いている無数の仏達を霊鷲山(りょうじゅせん)に呼び寄せられました。無数の仏を招き入れるために、会座の人々を残して他の地域の人々はこの娑婆国土ごと(宇宙の彼方の)別の世界に移して、霊鷲山と宝塔を中心とした広大清浄なる仏の国を現わしたのです。十方の世界から来臨された諸仏が皆既に宝樹の下に在る仏の座(獅子座=ししざ)に着かれると、お釈迦様は静かに空中に足を運ばれ、右の指で宝塔の扉(とびら)を開かれました。扉が開くとその中に、多宝如来が獅子座に在り、「素晴らしい!、釈迦牟尼世尊が法華経をお説きになられるとはなんと素晴らしいことだ、私はこの説法を聴くためにここに参りました」と言う多宝如来のお声を聞きました。多宝如来は獅子の座を半分空けて、お釈迦様に「ここにお座りください」と呼びかけ、お釈迦様がその座にお着きになられます。人々が、高くて遠いところの一座にある二仏を拝みながら、自分達も虚空へ引き上げて欲しいと思っていました。そこでお釈迦様は霊鷲山上の人々を皆虚空へ引き上げました。これから虚空での説法が始まります。まずお釈迦様は、「誰かこの娑婆世界において広く法華経を説く事が出来るか、今が正しくその誓いを立てる時である。私は間もなくこの娑婆世界を去るであろう。仏はこの法華経を汝らに委ね(ゆだね)、それが保たれるように願う」と仰せられました。そして六難九易(ろくなんくい)の喩えをもって、お釈迦様の滅後に法華経を保ち広めることが如何に難しいか、というお話をされました。

 六難九易の喩えとは、例えば、「山を掴んで投げること」は「仏滅後に法華経を守り広めること」に比べれば容易い(たやすい)ことである、といったように末の世において法華経を護ること広めることの難しさを述べたものです。

第十二章(提婆達多品=だいばだったほん)

 ここでまた説法の趣(おもむき)が少し変わり、悪人成仏と女人成仏の話になります。

 提婆達多(だいばだった)はお釈迦様を殺して教団を乗っ取ろうと企てるに至るまでの悪事を重ねてきたのですが、お釈迦様は提婆達多に授記を与えました。

 この悪人成仏は提婆達多に限らず誰にとっても同じです。要するに「絶対的な善行とは何か。絶対的な悪行とは何か。それ以外の善行・悪行はあまり意味がない」ということでしょう。絶対的な善行を行う者にとっては、人間社会で言ういわゆる善行は当たり前のことになってきます。また絶対的な善行に気づく前に人々の中で犯した数々の悪行は、絶対的な善行の光によってかき消されてしまうのでしょう。「絶対的な善行」については特に十七章と十八章において「一念信解・一念随喜」という表現をもちいて詳しく説かれています。第十二章提婆達多品の経文は次のようなお話からはじまります。

 遠い昔、仏法の為に位を捨てて大乗の教えを求め歩いた国王と大乗の教えを知る阿私(あし)という名の仙人が居た。国王は、大乗の教えのためならば、我が身も地位も財産も全てを投げ打って大乗の教えを説いてくれる人に命尽きるまで使えるであろうと言って「大乗の教えを知る人」を捜し求めた。その時、阿私という名の仙人が来て「私は妙法蓮華経という大乗の教えを持っている、もし約束を守るならあなたの為に説きましょう」と言った。国王は大いに喜び、命尽きるまで仙人に尽くして、ついに大乗の教えを修得した。という内容ですが、話の終わりにお釈迦様は、その時の国王は今の私(お釈迦様)であり、阿私仙人は今の提婆達多であると明かされました。

 次に、多宝如来の従者である智積菩薩(ちしゃくぼさつ)が、お釈迦様の従者である文殊菩薩と法を語り合う様子が記されています。文殊菩薩は龍王の宮殿において人々を教化して今戻ってきたところでした。文殊菩薩は龍王の宮殿において「龍王の娘が八才にしてよく煩悩を断って悟りの境地に達し、ついに成仏したこと」を語ると、智積菩薩はとても信じ難いといって問答が始まります。舎利弗も「女性が成仏することはありえない」と言います。すると突然龍王の娘が現れ、智積菩薩と舎利弗に向かって「あなた達の神通力によって私の成仏を観てください」と言って成仏する経過・成仏してからの姿を現して見せると、智積菩薩および舎利弗と、会座に居る全ての人々は、何も言わずに黙って信じ受け入れた、と記されています。

 これは当時のインドにおける女性蔑視思想を否定する教えですが、女人成仏は次の第十三章で華々しい展開がみられます。

第十三章(勧持品=かんじほん)

 この章は薬王菩薩を始めとしてお釈迦様の従者である多数の菩薩達が、仏滅後に法華経を広く説くことを誓う場面から始まります。

 菩薩達は皆、お釈迦様の前に進み出て「娑婆世界(しゃばせかい)ではあらゆる苦難が待ち受けているでしょう、しかし我らは大いなる忍耐をもって身命を惜しまずこの教えを広めます」と誓います(不惜身命)。続いて菩薩以外の修行者たちが同じようにお釈迦様の滅後に法華経を説き広める誓いを行いますが、彼らは布教に対する迫害の少ない別の世界で布教すると言うのです。迫害に対する忍耐力が菩薩ほど強くないからです。

 その後、女性の出家者について書かれています。摩訶波闍波境(まかはじゃはだい=お釈迦様の叔母)ほか六千人の比丘尼(びくに=尼僧)達は、共に座を立って、一心に合掌し、お釈迦様の顔を淋しそうに仰ぎ見ていました。お釈迦様は摩訶波闍波境に「なぜ憂い(うれい)の色を湛えて(たたえて)如来を見ているのか。私がお前の名をあげて、成仏する予言をしなかったと思っているのではないか。摩訶波闍波境よ、私は先に、総じて一切の弟子達に対して、未来世に成仏するという確証を既に授けたのだ」と言われました。その時に耶輪陀羅(やしょだら=お釈迦様の王子時代の妃)は、「世尊は一人私の名だけをあげられなかった」と思っていた。そこでお釈迦様は耶輪陀羅に「お前は未来世に多くの仏の教えを受けて菩薩の行を修め、偉大な法師となり、少しずつ仏道を修め、善き国において成仏することが出来る」と言われたので、摩訶波闍波堤比丘尼、耶輸陀羅比丘尼、ほかの比丘尼達は皆大いに歓喜しました。

 再び菩薩達が、お釈迦様の前で意気盛んに誓いの言葉を語ります。三類の強敵から受ける迫害に対しては「我らは身命を愛さずただ無上の道を惜しみます、我らは世尊の使者であるから人々に対処するに恐れることは何もありません」という心意気を示しました。(我不愛見命 但惜無上道 我是世尊使 処衆無所畏)

 三類の強敵とは、①一般大衆による迫害・②出家僧と称しているが邪心を抱く僧から受ける迫害・③一般大衆から高僧と崇められているが実は裏で権力者と通じて自分の権力を高めて傲慢にふるまう者から受ける迫害、の三つであると経文に記されています。

第十四章(安楽行品=あんらくぎょうほん)

 「仏滅後の末世において法華経を護持し説くための心得」について十章と十三章でも説かれていましたが、この章ではお釈迦様が文殊菩薩の問いに答える形式で記述されています。

 極く短かく要約すると以下のようになりますが、これを気負うことなくりきまずに日々の生活に組み入れたような楽な態度(安住した状態)で実行しなさいという教えです。お釈迦様はその内容を四つに分け、四安楽行と名付けています。

一、{身の処し方}として、俗世間に関する事を避けて常に、忍耐・柔和・不動・慈悲の心を持って行動すること。不適切な場所や人に近づかないこと。不適切な場所や人については一般的に言って宗教者にふさわしくない場所が列挙されています。人についても種々事細かに述べられています。更に万有の真相を正しく観ること。万有の真相については第二章方便品で述べられていますが、ここでは、この世に存在する全ては空であるといった般若心経のような説明が見られます。

二、{言葉の使い方}では、誤ったことを説かず、他人の過ちを追及せず、相手の能力性質に応じて優しく穏やかに菩薩の道・大乗の教えを語ること。

三、{心の表し方}では、怒り・高慢・欺き・諂い・嫉妬・邪(よこしま)・偽りなどの心から離れ、大きな慈悲の心を持って全ての人々に対して平等に教えを説くこと。

四、{誓願の持ち方}では、自分の修行に加え、他の人も導くという「自行化他」の誓いをたてること、この誓願についてお釈迦様は次のように具体的に述べられています。

 後世の人々が、仏の教えを聞かず・問わず・知らず・気づかず・信ぜず・理解せず、といったような場合でも、(菩薩である汝らは)「自分が成仏の悟りを得た時には、どこに居ても、神通力と智慧力によって彼らをこの教えの中に留まるようにしよう」と思って誓願を立てなさい。

 最後に、法華経が仏教の真髄であることを、大王の髻中の珠に譬えて説明されています。  髻(け)=髪を頭上に束ねたもの(もとどり)

第十五章(従地湧出品=じゅうじゆじゅっぽん)

 時は虚空会の真最中です。(第十一章で)お釈迦様が、仏滅後にこの法華経を広く世に伝えると誓うものは名乗り出よ、と仰せられたので、十方の世界から来臨した菩薩達が「我々がこの娑婆世界において法華経を護り広めることをお許しください」と願い出ます。しかし菩薩達には思いもかけない答えが返ってきました。お釈迦様は来臨の菩薩達に対して「汝らには頼まない、何故ならこの娑婆世界には、私がこの世を去った後、法華経を護持し広める菩薩が無数に居るからだ」と言われたのです。次の瞬間、大地が裂けその中から数えきれない多数の菩薩が涌出るように現れました。この菩薩衆を地涌の菩薩(じゆのぼさつ)と言います。地涌の菩薩が多宝仏・釈迦牟尼仏ならびに分身の諸仏を礼拝し終わるころ、お釈迦様の弟子である娑婆世界の菩薩達および分身の諸仏に付き従って他の世界から来臨した菩薩達は、「この地涌の菩薩は一体何処から来たのか、どの仏によって教化されたのか、なぜここに現れたのか」と不思議に思い、その来歴を知りたがっていました。そこで弥勒菩薩(みろくぼさつ)が人々を代表してこの思いをお釈迦様に質問しました。お釈迦様のお答えは「今ここに現れた地涌の菩薩達は、全て私が教え導き、菩提心(ぼだいしん)を起こさせたのだ」というものでした。この答えに対して弥勒らは信じる以外にすべはありません。しかしお釈迦様が菩提樹の下で成仏されてからまだ僅かに四十年しか経ていません、その間にこの計り知れない数の菩薩達を教化出来るはずが無い、我らは常にお釈迦様に付き従ってきましたが、地涌の菩薩の中に顔見知りは居ません。そこで弥勒菩薩は「我らは仏の言葉に嘘偽りの無いことを知っていますが、後世の者達がこれを聞いたら疑いを起こして悪道に落ちるかもしれません。世尊よ、どうか詳しく説明してください」とお願いします。

 これに対するお釈迦様のお答えが、次の第十六章如来寿量品に示されています。

第十六章(如来寿量品=にょらいじゅりょうほん)

 お釈迦様は、「皆の者、まさに如来(お釈迦様)の言葉を信じ理解せよ」と度繰り返して大衆にお告げになりました。そして真実を語る最初のお言葉は、

一切世間の人々は、私が釈迦族の宮殿を出て伽耶城の近くにある道場に坐して、仏に成ったと思っている。しかしそうではない、私は仏となって以来、無限の時が過ぎている・・・」となっています。即ち、お釈迦様は無限に近いような長い期間において地涌の菩薩達を教え導いてこられたのです。その後お釈迦様は「小乗の悟りで満足している修行者を含めたすべての衆生を仏道へ導くために、人として生まれ、若くして出家して、遂に成仏したという仮の姿を示したのである」と述べておられます。すなわち、お釈迦様は菩提樹の木の下で座禅を組み成仏の悟りを開いたのではなく、元から仏であったということ、無始無終の久遠本仏であることが明かされたのです。

 またお釈迦様は「仏は人々を導くために死んだように見せることもあるが、実際には死ぬのではない。私は常にここに居るのだが信仰心の無いものには見えないようにしているだけのことである。仏の世界は、この世の人がこの世を見るようなものではない・・・」と仰せられています。

 仏の世界を此の世のものに例えることは出来ませんが、人々に仏の世界を想像させるためでしょうか、経文には「人々の時運尽きて世の中が大火に焼かれるその時も、仏の国は安穏として、喜びに満ちた人々で溢れて、園も林も館も美しく、木々は美しい花や果実をつけ、皆楽しく過ごしている。喜びに満ちた人々は美しい調べの楽を奏で、空からは曼荼羅の花びらが静かに降り注いでいる」と表現されています。

 第十六章の要点は、①お釈迦様は無始無終の久遠本仏である、②仏の世界は、(永遠至福の状態であり)この世の人がこの世を見るようなものではない、この二点だと思うのですが、この章(如来寿量品)は全体の一言一句に、お釈迦様の大きな慈悲心が滲み出ていますので、実を言えば要点を述べるということに無理があります。有名な喩話として「良医と病める我が子」の物語もあります。是非、全文を紐解き何回も読み返して理解するようお薦めします。

第十七章(分別功徳品=ふんべつくどくほん)

 この章は、無限の過去に遡る長い間にお釈迦様の教えを受けた無数の菩薩達が成仏してきた様子を説明するお話から始まります。お釈迦様の話が始まると、その場は華と宝、諸々の妙なる装飾具で飾られ、虚空には天鼓が響き、妙なる香りの香が焚かれ、花びらが舞い、天の衣が舞い、たぐいなき妙音で諸仏讃歎の歌が聞こえてくる・・・といったような、荘厳華麗な場面が展開します。人々は皆歓喜して「自分も成仏したい」という強い気持ちを抱き、弥勒菩薩は喜びの気持ちを次のように告白しました。

「仏の寿命が永遠である事を聞いて一切の者は皆歓喜し、人々は豊かなご利益(ごりやく)を得ました。全ての人々は善の素質によって心を支え、成仏への道を歩むでしょう・・」このような内容のことをいろいろな譬え(たとえ)を用いて告白しています。

 その後お釈迦様は「一念信解(いちねんしんげ)」の功徳(くどく)についてお話されます。功徳とは未来に良い結果をもたらす善行のことであり、小さな善行を繰り返すことも大切ですが、本当に大きな善行、未来に決定的な良い結果(成仏)をもたらす決定的な善行とは何でしょうか。悪行についても同じで、小さな悪行を繰り返すことは必ず悪い結果をもたらしますが、取り返しのつかないような決定的悪行とは何でしょうか。お釈迦様は次のように説いておられます。

 アイッタよ(お釈迦様は弥勒菩薩をアイッタと呼ばれていました)、ここに人が居て、仏の寿命が永遠なることを聞き、たった一念にもこれを信じて、素晴らしい有難いことだと、理解して心底から喜びを感じたならば(一念信解初随喜)、その功徳は限りないものである。例えば、ある人が百千万億年と気の遠くなるほど長い間、修行として「人に施し、戒律を守り、苦難に耐えて、精進し、雑念を離れて静寂な心を保っても」その功徳は一念信解の功徳に比べれば百千万億分の一にも及ばない。一念信解の功徳はこれほど大きいのだが、この教えを護持して、広く他人にも説き、書写させ、そして様々な供養を行うならば、更に大きな功徳となる。仏滅後(お釈迦様がこの世を去られた後)に、この教えを聞いて有難く思い随喜の心を起し、信じて護る者は、仏の為に塔寺を建てまた僧房を作り、供物をもって衆僧を供養する必要はない、この経を信じて随喜し、護るだけでそれに優る供養を行ったことになるのだ。

 要するに、仏の教えを信じることによって理解し、喜び、他人にもそれを伝え、護持すること、そのいずれもが絶対善なのです。施しや思いやり、厳しい戒律の遵守、苦痛を忍び不断の努力といったような、人間世界でもてはやされる善行とは比較にならない絶対的な善行こそ成仏(永遠至福の境涯)に至る道なのです。

第十八章(随喜功徳品=ずいきくどくほん)

この章は、教えの伝授を継続することの大切さ、および伝授されて随喜することがいかに大きな功徳であるか、という教えです。経文の一節には次のように記されています。

 アイッタよ、如来がこの世を去った後に、この経を聞いて有難く思い、大いに喜びを得た者が、その人の能力に随って他の人々にこれを説いた。人々はその話を聞いて有難く思い大いに喜んでまた他の者に説いた。教えを聞いた者が有難く思い大いに喜んでさらにまた他の者に説いた。この様に転々と説いて五十回目に至った。この第五十回目に伝え聞いた教えでさえ、これを聞いて心底ありがたく思い、大いに喜んだ人々の功徳は計り知れないほど大きい。法華経は奥深く聖なる教えであり、千万の長い時間においても出会うことは難しい、ゆえに、この教えを聞くことを受けて修行したことが、ほんの少しの間であってもその人は大いなる福を得る。まして一心に聞き、その意義を解説し、教えの通りに修行した場合は言うまでもなくその福は限りない。ほんの一節でもこの教えを聞いて心の底から喜びを感じたならば、その功徳は極めて大きい。

第十九章(法師功徳品=ほっしくどくほん)

 お釈迦様が常精進菩薩(じょうしょうじんぼさつ)に話された内容が記されており、要約すると次のようになります。

 人が法華経の教えを受持し(銘記して忘れない)、読み誦え、解説し、書写するならば、この人はまだ仏の位に達していなくても、功徳を得て、眼・耳・鼻・舌・身・意の力は自由自在になる(六感万能)。たとえば、三千大千世界の種々の香りを全て嗅ぎ分けて悉く知る、と言ったような表現で六感の働きが述べられています。

第二十章(常不軽菩薩品=じょうふぎょうぼさっぽん)

 お釈迦様は最初に、法華経を謗る(そしる)者の罪の大きさと、法華経の教えを護持する者が得る功徳の大きさについて述べられてから次のような概要のお話をされました、それはお釈迦様の過去における物語の一つです。

 計り知れない遠い昔、ある国に威音王如来(いおんのうにょらい)という仏が居られた。威音王如来が既にその世を去り、時は流れて高慢な僧侶達が大勢力を持っていた。その時に一人の菩薩僧が居り、人を見るたびに誰に対しても礼拝讃嘆し「私は深くあなた(達)を敬います。軽んじることはいたしません。あなた(達)は皆、悟りを求める修行者の道(菩薩道)を実行して、やがて仏になられるでしょう」と言った。そのように言われた人の中には、不快な思いを感じて怒り恨む思いを生じ、心が清らかでない人もいて、「どこから来たのか知らないがこの無智の坊主よ、あなた(達)はきっと仏になられるでしょうなどと予言したりするが、我らにはそのような嘘偽りの甘い言葉などに用はない」と口汚く罵ったり、投石したりして迫害した。この様にして多年が過ぎ去り、常に罵られたけれども、この菩薩僧は彼らに対して怒り恨みの思いを起さず、同じ行為を続けてきた。そのうちに傲慢な人々は、この菩薩僧が常に「軽んじることはいたしません」と言うことから彼を常不軽(じょうふぎょう)と呼ぶようになった。お釈迦様はさらに、この常不軽菩薩(じょうふぎょうぼさつ)の長い経歴を語られた後、次のように明かされました。

 実は、その時の常不軽菩薩はこの私自身であった。常不軽菩薩を罵った人々は、法華経の行者である菩薩僧を見くだし馬鹿にしたために、二百億の間常に仏に会わず、教えを聞かず、僧を見ず、阿鼻地獄に落ち千の長きにわたって大苦悩を受けた。この罪を償い終って、また常不軽菩薩に会い、成仏への道に教え導かれた。常不軽菩薩を軽蔑し、罵り迫害を加えていた人々は他でもない。今この会座の中にいる跋陀婆羅(ばったばら)ら五百人の菩薩、師子月(ししげつ)ら五百人の比丘、尼思仏(にしぶつ)ら五百人の善女など、悟りにおいて不退転の者達である。

第二十一章(如来神力品=にょらいじんりきほん)

 ここでは、仏の神通力を存分に示した場面が記されています。この場面は信仰心の強い菩薩だけが観ずることのできた場面だと思います。人間の知恵である科学は信じるけれど、仏の無限なる智慧である仏法を信じない人々にとっては、何も見えなかったものと思います。経文には、「地涌の菩薩衆が、『仏滅後、この教えを説き広めます』と誓いを述べた時、お釈迦様は大衆の前で、霊妙不可思議な神通力を現わされた」とあります。その神通力とは次のような十種類の事象が記載されており、十神力と言われています。

①仏の言葉に偽り無しと、長く広い舌を出して天に届かせました(出広長舌)。

②全ての毛孔から光を放ち全宇宙十方の世界を照らしました(通身放光)。

③次に長い舌をもとに戻されて、咳払いをされました(謦咳=きょうがい)。

④続いて指を鳴らされました(弾指=だんじ)。

   謦咳・弾指二つの音は大宇宙あまねく十方の世界に響き渡りました。

⑤その音によって十方世界の大地は全て心地よく六種に震動しました(地六種動)。

⑥宇宙の彼方十方世界の人々は皆、此の娑婆世界の虚空会の座で人々がお釈迦様を敬い礼拝する姿を見て、皆大いに歓喜して未曾有な気持ちを抱きました(普見大会=虚空会が霊鷲山だけではなく、宇宙十方の世界すべての大会座になった、という意味)。

⑦その時、虚空の中から、「此の無量の世界を過ぎて国あり、娑婆と名づく。是の中に釈迦牟尼という名の仏が居られ、今人々に、大乗の教えを説かれています。皆心から喜び、釈迦牟尼仏(お釈迦様)を礼拝供養しましょう」という声が聞こえました(空中唱声)。

⑧十方世界の人々は虚空の中の声を聞き、皆合掌して娑婆世界に向って、南無釈迦牟尼仏、南無釈迦牟尼仏(なむしゃかむにぶつ)と二回唱えました(咸皆帰命=宇宙十方の世界すべての人々が皆お釈迦様に帰依する、という意味)。

⑨すると宇宙の彼方十方の世界から、種々の華・香・瓔珞・幡蓋その他いろいろな装飾具・珍宝・妙物などを、あたかも花びらを撒く(まく)ように遥か娑婆世界に飛散させてきました。その有様は譬えて言えば雲の集まるような感じであり、それが変じて宝の帳(とばり)となって遍く諸仏の上に覆いました(遙散諸物)

⑩その時に十方世界は何の障害物も無い一つの仏の国ようになりました(通一仏土)。

 このような仏の神通力を示されたお釈迦様は上行菩薩ら地涌の菩薩衆に、「如来が世を去った後、汝らは一心にこの教えを護持し広めなさい」と仏滅後の布教を委ねました。また、「この教えを実践する所は何処であっても、そこは即ち道場(真理を学ぶ所)であり、諸仏がそこで真の悟りを得、教えを説き、般涅槃(はつねはん=人の姿で現れた仏様が人としての死を迎え、仏の国に戻られること)を示されたのである。この教えを護る者は、日月の光が暗闇を除くように、人々の心の闇を滅し、多くのの菩薩を導いて遂には一乗の教えに安住させる。この人が成仏することは疑いない」と説かれています。

 仏滅後に「この教え(法華経)を護り広める者」として一番よく知られている人は日蓮上人です。日蓮上人の生涯を見ると上行菩薩など、お釈迦様が法華経の弘通を委ねられた、地涌の菩薩そのものと言えるでしょう。そうすると、仏滅後に「この教えを護持する者」が人々の心の闇を滅し、「多くの菩薩」を導いて云々の「多くの菩薩」とは日蓮上人の導きを受ける人(弟子達)の中で「仏の悟りを求め、他の人をもその道へ導こうと努力する人々」を指すことになります。私たちも成仏を得るための第一歩として、この菩薩に成れるように努力したいものです。

 第十一章からここまで、お釈迦様は多宝仏と共に宝塔の中に居られ、塔内の仏坐から教えを説かれ、指示をだされてきました。

第二十二章(嘱累品=ぞくるいほん)

 お釈迦様は一乗の法(人々が成仏に至る唯一の教え)を説き終わり、宝塔の座を立たれて塔の外に出られました。そこで全ての菩薩達に、未来の世における法華経の弘宣流布(こうせんるふ=ひろく流通させること)を再度委ねられました。

 そこでお釈迦様は宇宙の彼方十方の世界から集まった分身の諸仏に、それぞれの国に戻られますようにと仰せられました。多宝仏には、塔を元に戻され給え、と言われて多宝塔は消え、虚空会は終り、会座は再び霊鷲山の地上に戻ります。

 法華経の要である一乗の法(成仏に至る唯一の教え)はここまでに説き終わりましたので、法華経はここで終了としてもよいかもしれません。この後もお釈迦様はいろいろな教えを説かれますが、二十三章から二十八章までの六章は各章の間に関連性や繋がりは無く、各章が独立しています。

第二十三章(薬王菩薩本事品=やくおうぼさつほんじほん)

 講座は再び霊鷲山(りょうじゅせん)の地上に戻り、お釈迦様は薬王菩薩の来歴について次のように話されました。

 塵点劫(じんてんこう)の昔に日月浄明徳(にちがつじょうみょうとく)という仏の国があり、仏は人々に法華経を説かれました。そこで或る一人の菩薩(名前は一切衆生喜見という)が仏の教えを守り仏道修行に専心した結果、自分の身が真理と一如して(同一になり)、姿を自由自在に変現する能力を得ました。その菩薩は、法華経を聞くことによってこの力を得たので、日月浄明徳仏および法華経を供養したいと思い、日々あらゆる方法で供養したが、どうしても満足できるだけの供養が出来ず、遂に神通力の願によって身を焼いて供養することにしました。その菩薩は、この様な供養をなし終えて命が尽きた後すぐにまた日月浄明徳仏が在世中の国で、浄徳王の家に王子として生まれ、父の大王に、仏を供養することの大切さを説きました。仏様は、「我は入滅の時がきた、全てを汝に任せる」とその菩薩にお告げになり、その夜に入滅されました。その菩薩は、あらゆる供養を行ったがなお満足せず、天の宝衣を自ら身にまとい、諸々の香油を注ぎ、神通力の願によって自らの身を燃やすと、その光は宇宙の彼方十方の世界を照らしました。お話はまだ続きますが、最後にお釈迦様は「一切衆生喜見菩薩とは他でもない、今の薬王菩薩がこれである」とお告げになりました。

 この後、お釈迦様は、あらゆる経典の中で法華経が第一の教えであることを、いろいろな譬えをもって説明され、真実は法華経に説かれている、と述べられています。また「この教えは人々が囚われている生死の縛を解き放ち、全ての苦悩を除き給う」・「法華経はあらゆる人の病を治す良薬である。もし病人がこの法華経を聞き信仰するならば、病は消え失せて不老不死の境涯を得る」というお言葉もみられます(若人有病 得聞是経 病即消滅 不老不死)。

 この所謂「焼身供養」とは、仏に対する報恩の真心が自己全体を仏の道に没入させ、あらゆる煩悩を焼き尽くし、その光が三千大千世界を照らし浄める(きよめる)光明となって輝いた。すなわち自我を仏に献じて法界(仏界)に入る、法界一如の心を現わした物語です。

 中国の壮絶な虐殺と拷問による弾圧に対して、チベット人の多くが今なお焼身自殺の道を選んでいますが、本当に悲しい出来事です。仏教徒が時に「焼身自殺」の道を選ぶのはたぶんこの経文が拠りどころになっているのかもしれません。純真な仏教徒であるチベット人ですから、この経文の真意を理解していると信じています。

第二十四章(妙音菩薩品=みょうおんばさっぽん))

 ここでお釈迦様は再び眉間から光を放ち、宇宙の彼方にある無数の世界を人々に観じさせます。その中に浄華宿王智如来(じょうけしゅくおうちにょらい)という仏様の世界がありました。お釈迦様の光は遍く(あまねく)その国を照らし、そこに妙音菩薩(みょうおんぼさつ)の姿を見ることができました。妙音菩薩は、お釈迦様を詣で、お釈迦様の弟子である菩薩衆に会いたいと、浄華宿王智仏にお願いして霊鷲山に向かいます。妙音菩薩が、この娑婆世界に向かう途中に経過する諸仏の国々では、妙音菩薩に供養する荘厳華麗な現象が現れ、その様子が詳しく記述されています。霊鷲山に来臨した妙音菩薩はお釈迦様を礼拝供養し、文殊菩薩らと法を語り会いました。そこで華徳菩薩(けとくぼさつ)がお釈迦様に妙音菩薩の来歴を尋ね、お釈迦様はその過去世における功徳積み上げの来歴を話されました。妙音菩薩が国に戻るその帰路に経過する無数の仏の世界では、来る時と同様に荘厳華麗な現象が現れます。

第二十五章(観世音菩薩普門品=かんぜおんぼさつふもんぽん)

 この章は観世音菩薩に関するお釈迦様のお話で観世音という名の由来と神通力について説かれています。まず、その名の由来について「観世音菩薩の名を唱えれば、観世音菩薩は即時にその音声を観じて、その人を煩悩の束縛から解き放ち自由の境地に到達させる、それ故観世音と名づける」と説かれました。続いてどのような悩み苦しみから救うのか、多くの例を挙げて詳しくお話されています。中には現世ご利益的な文言も多いので、この一章だけを切り取って依経とした宗派が現れました。しかし「修行者である菩薩」をご本尊様として置いたのでは、仏教の道理にはずれており仏教とは言えないと思います。この章では法華経・一乗の法・大乗の教えなどの語が全く出てきません。

第二十六章(陀羅尼品=だらにほん)

 薬王菩薩が、法華経の修行者・説法者を守護するための呪文(じゅもん)を唱え、続いて勇施菩薩(ゆうぜぼさつ)がまた同じ目的で呪文を唱えると、毘沙門天(びしゃもんてん)・持国天、さらには十名の羅刹女(らせつにょ)たちが同じ目的で呪文を唱えます。お釈迦様は呪文を唱えた人達にお褒めの言葉を述べられています。

第二十七章(妙荘厳王本事品=みょうしょうごんのうほんじほん)

 この章は、異教の信者であった父の国王が二人の王子に導かれて法華経を信仰するようになり、ついに仏様から成仏のお墨付きを得たというお話で、次のような概要です。

 遥か昔の世に、雲雷音宿王華智如来(うんらいおんしゅくおうけちにょらい)という仏様の国に、妙荘厳(みょうしょうごん)という名の王が居た。王妃の名を浄徳、二人の王子の名は浄蔵および浄眼であった。この二人の王子が異教の信者である父、妙荘厳王を重ねて説得します。王子達は母の協力も得て、遂に父を雲雷音宿王華智仏のもとへ連れて行くと、国王である父は仏に向かって「世尊よ、我が二人の子は、私の邪心を正して仏法の中に安住させてくれました、この子らは私の善き指導者であり、私を救うために我が子として生まれてきてくれたのです」と心の内を告白した。このような概要ですが、父王の親心が素晴らしいですね。

 最後にお釈迦様は、「この二人の王子は今此処に居る薬王菩薩と薬上菩薩なのだ」と二人の菩薩の来歴の一部を明かされています。

第二十八章(普賢菩薩勘発品=ふげんぼさつかんぽっぽん)

 此の最終章は普賢菩薩が、宇宙の彼方遥か東方の国から多くの菩薩を伴って霊鷲山に来臨する時の描写で始まります、来臨した普賢菩薩がお釈迦様を礼拝し、「仏滅後に、この法華経を正しく体験して理解するには、どのようなことを心掛けるべきでしょうか」と教えを請いましたお釈迦様の答えは、①仏を念じ諸仏に護られること、②怠けずに徳を積むこと、③修行不退転の境地に入ること、④人々を救う利他の心を持つこと、の四点に要約されます。これが法華経を体得するための心得「四法成就」ですが、これを第十章(法師品)で説かれた、法華経を広めるための心得である忍耐・無我・慈悲という「衣座室の三軌」と共に感得したいものです。

 その後は普賢菩薩の言葉が続きます。仏滅後に法華経を護持する者を守護するという普賢菩薩の思いを「お釈迦様に誓いをたてる」という形で述べています。

 お釈迦様が、普賢菩薩を褒め称えて、我まさに神通力をもって、普賢菩薩の名を銘記して忘れない者を守護しよう。普賢よ、法華経の教えを銘記して忘ず、読誦し、書写し、実践する者は、釈迦牟尼仏を見ていることである。仏の口から直接この経典を聞いているようなものである。この人は釈迦如来を供養しているのだ。この人を仏が、「素晴らしい」と讃嘆しているのだ。この人は釈迦如来から手でその頭を撫でられるのだ。この人は釈迦如来の衣に覆われるのだ。等々を普賢菩薩に述べられ、更に、法華経を護持する人の安穏な行く末と、法華経を謗る者の悲惨な末路が述べられています。法華経におけるお釈迦様の最後のお言葉は「この教えを護持する者を見たならば、立ち上り遠くから迎え、仏を敬うが如くにしなければならぬ」をもって結ばれています。

それでは法華経の第一章から二十八章まで全体を総括してみましょう

第一は万有の真相です。

 万有の真相(地球上の事だけでなく宇宙の全てにおける森羅万象)は人間の知恵(科学)をもって理解できるものではないが、その全ては原因が結果を生む不動の法則(因果応報)によって動いており、仏は仏の智慧によってそれを悉く知り尽くしている。人々は仏の言葉を信じることによって、仏の智慧を得ることができる」と説かれています。人間が考えても分からないということを思い知らせるために、説法に先立ち、宇宙に広がる無数の世界を会座の人々に観じさせたのです。

第二は三界火宅の喩です。

 「娑婆世界(地球上の人々が暮らすところ)は火に囲まれた家のように、まもなく破滅に至る大変危険な所であるから、正しい道を選んで早く脱出しなさい。危険を知らずに人生を好き勝手に楽しもうなどと考えている人々を憐れんで、何とか救い出したいというお釈迦様の願いが込められている教えです。また全宇宙の森羅万象全ては釈迦牟尼仏(お釈迦様)の内にある、迷いの享楽に耽る者・飢餓貧困にあえぐ者・病に苦しむ者・死の恐怖にさいなまれる者など全ての人々を、火に囲まれた家のように大変危険な所から救い出すのは釈迦牟尼仏だけである、と説かれています。

第三はお釈迦様(久遠本仏)の実態と仏の世界です。

 お釈迦様は釈迦族の王家の後継ぎとして生まれました。若くして出家し、難行苦行の末、遂に悟りを開いて仏に成ったと皆が思っていましたが、実は違うのです。そのことが法華経において説かれています。お釈迦様は始めも終りも無い永遠の仏であり、人々を救うために仮に人の姿をもってこの世(娑婆世界)に現れた久遠本仏であることが明かされました。また仏の世界はこの世の人がこの世を見るようなものではないので例えることはできないが、敢えて言えば、喜びに満ちた人々が楽しく過ごし決して壊れることのない安穏な所・・・云々と説かれています。

第四は仏の世界に入る方法で、「一念信解・一念随喜」という表現で説かれています。

 仏の世界に入る方法は前にも説かれたように「仏の教え」を信じることですが、善行は良い結果を、悪行は悪い結果を生み出すという不動の法則において、何がどの程度の善であり何がどの程度の悪であるかを説かれています。人の世で善行と言われる行為たとえば「他人に施し、他人の苦痛を代わって自分が受け、規則を守り、苦難に耐え、精進し、雑念を離れ、静かな心を持つ、等々」を百千万年と続けた功徳は大きいものですが、それは法華経の一節一句を聞いて、あー本当にその通りだ、有難い教えを知ってなんと嬉しいことだろう、と一瞬でも信じて心底から喜んだことの功徳に比べれば百千万臆分の一よりもはるかに小さい。要するに法華経の教えを信じて喜ぶことは他の善行に比べられない絶対善だということです。

【総括の余談】

人生に悩んでいる時、法華経に出会って救われ、心豊かに人生を全うした宮沢賢治は有名ですが、法華経に出会う縁に恵まれず、思い悩んだ末、遂に自ら命を絶った一人の青年、将来を期待された東大予科の学生、藤村操(ふじむら みさお=)を紹介します。

 藤村操は人生について疑問を抱き、それを次の詩歌で表現しました。

悠々たる哉天壤、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て此大をはからむとす。

ホレーショの哲學竟に何等のオーソリチィーに價するものぞ。萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、「不可解」。我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし。始めて知る、大なる悲觀は大なる樂觀に一致するを。

 その意味は「無限の宇宙・過去から未来へ続く無限の時間、この中に在っては無に等しいような小さな我が身と瞬間的な寿命に一体何の意義があるのだろうか、哲学者の説明は何も解決していない。万有の真相は不可解の一言に尽きる・・・」ということです。

 悩みぬいた後に彼が選んだ道は自ら命を絶つことで、落差九十メートル、日光華厳の滝に我が身を投じたのです(明治三十六年)。宮沢賢治は同じように悩んだところで法華経に出会い、それ以後は心豊かに人生を終えました。もしこの学生、藤村操が何かの縁で法華経に出会っていたら、宮沢賢治のように人生を心豊かに全うしたと思います。

三、人生の目的

 人生の目的は人それぞれで異なるのでしょうか? そうではありません、人生の本当の目的はただ一つ、それは「お釈迦様の教えを守って永遠至福の安らかな境涯を得ること」即ち「成仏すること」です。別の目的が有ると考えるならばそれは迷いの目的であり、夢のようにすぐに消え去ってしまう虚しい目的です。栄華を極めた豊臣秀吉でさえ、死を間近に控え、人生の虚しさを「露とおち 露と消えにし 我が身かな 難波のことも 夢のまた夢」と、自分が人生の目的とした「天下統一・贅沢三昧・やりたい放題」が迷いの目的であったことを知りましたが、最後まで人生の本当の目的を知らなかったのでしょう、不安と恐怖の中でこの世を去っていったように思えます。

 お釈迦様の教えの真髄である妙法蓮華経に帰依してその教えを守る、という人生の本当の目的を見失わずに日々行動するならば、あとはスポーツ・芸術、金儲け・権力追求、ギャンブル、また慈善行為や座禅瞑想など適当に楽しみを追うことも、まあどうせすぐに消えてしまうことだけど、ちょっとやってみようか、と、気楽にできるでしょう。しかし本当の目的を知らずに、その場限りの権力や財力求めたり、小さな慈善行為で満足していると、その結果はまもなく出会う死に直面して恐れ慄くことになります。

 「受け難い人身を受け、さらに聞き難い仏法を聞いた今の人生」は極めて大切な、逃してはならないチャンスなのです。今こそ、妙の み法(たえのみのり=法華経)に従い・帰依する「南無妙法蓮華経」の心を持ち続けて、永遠至福の境涯である成仏に至る道を進まなければいけません。成仏に至る唯一の道が法華経に説かれているのです。

 天地のなかに人あり、人はただ、妙のみ法を守るべくあり

四、用語解説

あ行

・阿羅漢(あらかん):小乗の悟りに達した修行者。この悟りは「仏の悟り」ではない。

・一乗の法(いちじょうのほう):仏の国へ行く唯一の乗り物となる教え、これは沢山の人を乗せるので大きな乗り物(大乗)とも言い、法華経の教えを意味しています。

・縁覚(えんがく):他からの指導を受けずに自分の力で十二因縁の理を悟った修行者。

か行

功徳(くどく):善行、特に未来に福をもたらす原因となる善い行い。

・供養(くよう):(祈り、真心、お花、食べ物、お金、愛情などを)捧げること。

・偈(げ):詩、読みやすい文言、覚えやすい言い回し。

劫(こう):途方もなく長い時、想像も出来ないような長い時間。

・護持(ごじ):大切に保ち引き継いでいくこと。

さ行

三乗(さんじょう):声聞・縁覚・菩薩に対するそれぞれの教え。

・三千大千世界(さんぜんだいせんせかい):宇宙全体のことと理解してよい。三千大世界あるいは三界と表現することもある。

・成仏(じょうぶつ):仏に成ること、永遠至福の境涯を得ること。一般的な言い方をすると、極楽へ行くとか天国へ行く、という表現になります。

・釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ):お釈迦様(久遠本仏)

・諸法実相(しょほうじっそう):地球上のこと・大宇宙のこと・過去と未来の限りない時間のこと・心のこと、魂のことなど森羅万象あらゆることの真の姿。万有の真相。

小乗(しょうじょう):自分一人を悟りの境地に送る乗り物。小乗の悟りとは、欲を断ち静かに人生を考え、人は死して土に還るに恐れも悩みも無いという自己満足の状態

声聞(しょうもん):自分一人が煩悩を取り除いて悟りの境地を求める修行者。一人しか乗れない小さな乗り物を操る「小乗の修行者」と言えます。

・正法(しょうほう):仏がこの世を去った後、仏の教えが正しく実行されている時期。

・像法(ぞうほう):正法が過ぎて、仏道修行が形式的になり成仏できなくなる時期。

・世尊(せそん):弟子が仏様に語り掛ける時、呼びかけに使う言葉。世にも尊いお方。

・衆生(しゅじょう):人々、大衆

四諦(したい):苦の現実・苦の原因・苦の消滅・苦を消滅させる方法。

四衆(ししゅう):在家信者の男女と出家信者の男女を合わせて四衆という。

・獅子吼(ししく):獅子がほえて百獣を恐れさせるように意気盛んな発言。

・塵点劫(じんてんこう):劫という途方もなく長い時間をさらに繰り返し百千万憶倍したように計算できない長い時間。

・娑婆世界(しゃばせかい):現に私たちが住んでいるこの世界。

・受持(じゅじ):銘記して忘れないこと。

・授記(じゅき):「成仏する」という確証、成仏するというお釈迦様からのお墨付き。

・世界(せかい):人々が集まって生活している所。

・善知識(ぜんちしき):正しい教えを説いて仏道に導き入れてくれる善き友。

・十二因縁の法(じゅうにいんねんのほう):原因と縁が結果を決める因果応報という不動の法則。悩み苦しみの原因は何か、それを辿っていくとすべては無明(真理に対する無知)が大元の原因であると言う原因結果の分析。

十界(じゅっかい):人の境涯・心の持ち方を九段階に分類しこれに仏の境涯を加えた。

 ①地獄界は、あらゆる苦悩・苦痛・煩悶の境涯。

 ②餓鬼界は、飢えと渇きに苦しみ、狂気のように飲食を求める境涯。

 ③畜生界は、理性を欠き、本能的欲求によって動く境涯。

 ④修羅界は、他人の善根を憎み怒る、権力に媚びる、自己中心的に考えるような境涯。

 ⑤人間界は、平静に物事を判断し、善悪をわきまえて行動する境涯。

 ⑥天上界は、人間として喜びに満ちた境涯。

 ⑦声聞界は、小乗の教えによって煩悩を断ち尽し、四諦の法を悟った境涯。

 ⑧縁覚界は、十二因縁の理を独力で観じ、煩悩を断ち尽し、小乗の悟りを得た境涯。

 ⑨菩薩界は、常に仏の悟りを求めて修行すると共に、他の人々にも仏の教えを伝え、

 共に成仏することを願って人々を救済する慈悲の行動に没頭している境涯。

 ⑩仏界は、永遠不滅至福の境涯。森羅万象に通達し(すべてのことを知り尽くし分からないと言うことが無い)、至福の状態であり、それが永遠不滅である。

 十界について余談:私達大半の人は天上界から地獄界の六つの境涯にあると思います。この六つの境涯を六道(りくどう)と言い、そのうち地獄・餓鬼・畜生の境涯を三悪道(さんあくどう)と言います。大半の人はやはり人間界に居ると思いますが、時には喜びに満ちた天人になり、あるいは自己中心的になって修羅に陥ることもよくあることだと思います。

 成仏するためには菩薩の道を通らなければなりません。菩薩になるためには自らが仏の教えを信じること(自行)、およびその教えを他の人にも伝えようと慈悲の心を持って努力すること(化他)です。信じることは心が素直ならば誰にでもできることですね。しかし自分が信じている仏の教えを他の人にも伝えて信じてもらうためには相当な努力が必要です。十界の内、菩薩までは変化の世界ですから、何かの縁によって迷いが生じ、菩薩の位にあった人が菩薩の位から落ちることはありえることです。したがって私達は早く菩薩の道に入り不退転の決意で成仏にまで至りたいものです。

た行

・大乗(だいじょう):仏の国に行きつく大きな乗り物、自分一人だけでなく人々を皆乗せることのできる大きな乗り物。人々が成仏できるための唯一の教え(乗り物)であることから、この教えを一乗の法・一乗の教え、とも言う。

・智慧(ちえ):仏様の認識力「物事をありのままに把握し、真理を見極める認識力」。

・知恵(ちえ):人の知力「物事の筋道を立て、計画し、うまく処理していく能力」。

な行

・南無(なむ):(一心に敬意をもって)帰依する、拠りどころにする、従う。

「お願いします」という意味ではありません。

・涅槃(ねはん):煩悩を滅し尽した悟りの境地(永遠不滅な至福の境涯)。諸仏が人の世に現れて入滅を示すことを完全な涅槃=般涅槃(はつねはん)と言う。また久遠本仏であるお釈迦様がこの世を去る入滅を特に大般涅槃(だいはつねはん)という。

・如来(にょらい):仏様と同義語。

は行

・比丘(びく):出家した男性、僧。

・比丘尼(びくに):出家した女性、尼僧。

・毘沙門天(びしゃもんてん):仏敵を打ち据え、超人的な力をもって仏教を守る人。他にも持国天、増長天、広目天など神と称されるいろいろ人が居る。

仏性(ぶっしょう):人が誰でも有する「仏に成る性質」、仏種とも言う。

・法(ほう):①全宇宙における物心全存在すなわち森羅万象の構成要素。②「法則」「正義」「真理」「最高の実在」「宗教的真理」

・菩薩(ぼさつ):常に真の悟り(成仏)を求め、自分だけでなくすべての人々が成仏することを願い、他の人々に慈悲の心をもって真の教えを伝える努力を怠らない人。

菩提心(ぼだいしん):菩薩の心。真の悟りを求め、人々を救済しようと思う心。

・方便(ほうべん):人にものごとを解らせるための手段、喩話や一時的な非事実など。

ま・や行

・摩訶波闍波境(まかはじゃはだい):お釈迦様の叔母、生後間もなく母の摩耶に死に別れた王子お釈迦様の養母。

・瞑想(めいそう):目を閉じ、座禅を組み、心を穏やかにする精神統一。

・無明(むみょう):真理に対する無知、真実を知らないこと。

ら・わ行

・羅刹女(らせつにょ):超人的な能力を持つ荒々しい女。善悪両方の行いがある。

・霊鷲山(りょうじゅせん):インド北部に在る小高い山の名前、ここはお釈迦様が法華経を始め多くのお経を説かれた聖地であり、頂上の岩が鷲の形に見えます。

・輪廻転生(りんねてんしょう):繰り返し生まれ変わること

五、あとがき

 仏教の真髄である法華経の内容をなんとかして多くの人に伝えたいという思いから書き始めたこの小書ですが、読み返すたびに誤字脱字や転換ミスが見つかり、また表現や説明の稚拙さが問われる場面に遭遇してきました。もう一度読めばまた何か不都合が見つかりそうです。しかしいつまでもこれを繰り返していては終わりがないので、思い切って初版を印刷してみました。その結果は予想通りで、いろいろ不備が見つかりました。そこで今回は、念には念を入れて、誤字脱字転換ミスを点検し、初版の読者から寄せられたご指摘に沿って推敲を重ねて、改訂版(第二版)を出版するに至りました。読みやすさを重視して要約の限りを尽くした小書であるため、全体的に把握すべき説法の流れを示せなかったことに悔いが残ります。お釈迦様が法華経においてはじめて真実を説くに至った、その経緯を知ることによって法華経の重要性を思い知らされるのです。

人間の知恵(科学)では理解することのできない仏の世界を解らせるためにお釈迦様は五十年間にわたって順序正しく教えを説かれてきましたが、その過程で説かれた仮の教えに満足してその場に留まってしまうと真実に至ることはできません。仮の教えは真実に導く手段(方便)であり、数多くの方便が用いられてきました。説法の流れの一部であるいろいろな方便の教えを見てそこに留まった結果いろいろな宗派が乱立しています。人々はどの宗派が正しいのか分からなくなります。法華経はお釈迦様の教えの結論として説かれたものであり、お釈迦様の教えの経過も詳しく示されているのです。

 まずは皆さんが少しでも仏教に親しんでくれることを願い、またこの小書を足掛かりに法華経の全体を熟読されることを願っています。

                    令和三年五月  岩永正明

  発行所=霊鷲山 虚空庵  兵庫県川辺郡猪名川町木津東山10-34

             メール連絡は matosaiwa@yahoo.co.jp です。